アルコールと彼の指輪

 おじさんがメニューを閉じると、同時に携帯が鳴った。初期設定の黒電話風の着信音だった。

「俺じゃない。くまちゃん?」

 おじさんがこちらに首を傾けて言い、その時には既に、あたしは携帯を開いていた。画面に表示されたのは、見覚えの無い番号。いや、あたしは、この番号を覚えているような気がした。

「電話? 出ても良いよ」

 白く光る画面をじっと見つめているあたしに、おじさんは言った。あたしは小さく頷くと、半ば飛び降りるようにしてチューリップチェアから床に足を着けた。そんなあたしに、背後でおじさんが小さく笑ったような気配がしたけど、今はそれ所じゃない。

 少し早足でお手洗いへと向かう。女子トイレに入ると、通話ボタンを押した。

「……もしもし」

 恐る恐る画面を耳に当て、胸元に添えた手をギュッと握り締める。

『渥美? 俺だけど』

 携帯の向こうで、懐かしい声を聞いた。ああ、やっぱりあたしは、あの番号を完全に忘れることが出来ていなかった。
 終わった筈、だったのに。

「……俺って誰」

 あたしは出来る限り、毅然とした態度で応じる。“俺”が誰なのか分かっているけど、わざと分からないフリをした。動揺を悟られたくなかった。だって、どうして今になって――今更過ぎるよ。
 トイレの鏡に映った女は、酷く不細工な顔をしていた。唇を震わせて、息を押し殺してる。
 今朝に、おじさんに冗談で抱き締められたのを思い出した。あの時、おじさんに怯えて泣いたみたくなっちゃったけど、本当は違う。
 全部、携帯の向こうのあいつの所為だった。