彼の病室からは、美しいピアノの旋律が聴こえてきます。
正確に言うのなら、それはピアノではなくキーボードなのですが、
彼はそれをピアノと呼ぶので、私もそれをピアノと呼んでいます。
彼は楽譜を持ちません。
耳から聴き取り、それを指先で再現するのです。
彼はいつもラジオから聴こえる音楽を演奏します。
…それは、どこかで聴いたことのあるようなクラッシックの時もあれば、
流行のJ-POPや、懐かしい歌謡曲、ラジオCMの曲なんて時もあります。
とにかく彼はラジオから聴こえる全ての音をすぐに自分のものへとしてしまうのです……。
彼が今弾いているのは、先程ラジオで流れていたジャズ。
私は物音を立てぬように注意しながら、部屋の隅で彼の綺麗な音色に耳を傾けるのです。
彼に私の姿は見えていません。
なぜなら私は透明人間だからです……。
ふいに演奏が止みました。
彼は手を止め、顔を上げます。
「ねぇ、なにか聴きたい曲とかないの…?
リクエストしてくれればなんでも弾くからさ…」
そう言って彼は私に向けて口を開きます。
しかし、私の姿は見えていないから明後日の方向に顔を向けています。
彼はこうしていつも私に話し掛けてきます。透明人間の私を喋らせようとしているのです。
彼に私の姿は見えません。
しかし、私の存在は知っているのです。
耳のいい彼は、私の息遣いや小さな物音から、この部屋に自分以外の誰かが居ることに気付いてしまったのです……。
「…なんとか言いなよ、透明人間」
返事をしない私に、彼は悲しそうにそう呟きました。
悲しませてごめんなさい。
私は透明人間。
貴方に話し掛けることは出来ません。