「……あんた、あたしが二十五歳の時処女を失ったって話、舞ちゃんから聞いただろ。
いいんだよ、あたしが舞ちゃんに内緒にしろとは言わなかったんだ。
あの時、あたしはピアニストの夢敗れて、教職の免許を取りに半年間大学へ戻っていたんだよ。
そこにあの男がいた。
あいつはね、当時、芸大の助教授で、教職の単位を受け持ってたんだ。
初めて会った日から、あいつはあたしへの好意を隠そうとはしなかった。
当時はあたしも若かったし、自分で言うのもなんだけど、割かし美人だったんだよ。
本来のあたしだったら、そんなしつこく言い寄る男なんて相手にしなかっただろうよ。
でもね、その時はあたしも気弱になっててね、誰でもいいから頼りたい気分だった。
教職取って無理に働かなくても、結婚でもすればいいじゃないかって、心の底から誘惑の声が響いてきてね。
あれは、三月の初め、なんでそこへ行ったのかはっきりと覚えていない。
何か届け物をしに行ったんだろうね、あいつの下宿へ。
あたしは、そこで、無理やり押し倒された。
抵抗すれば、できたのかもしれない。
でも、そんな気力が湧いてこなかったのさ。
痛さと恥ずかしさで、みじめに小さくなったあたしに向かって、あいつは勝ち誇ったようにね、
『僕と結婚するのがあなたの幸せですよ』って言ったのさ。
あたしは身震いしたよ。
あいつはあたしを征服することに喜びを感じていた。
あたしは、ほんのちょっとでも、こんな奴との結婚を思い描いた自分を責めた。
まぁね、この歳になって思い返せば、あの時、あいつに処女を奪われていなければ、それから先の人生、一人で立って歩いていく勇気が湧いてこなかったかもしれないなとは思うさ。
兎に角、あたしはその日を境に、あいつには二度と会わない決心をした。
まぁ、必要な単位は取れてたしね、もう会う必要もなかったのさ。
あいつもそれが判ってって、焦っていたのかもしれないね」
(あいつって誰だ?)
繁徳の疑問をよそに、しばらく沈黙が続いた。



