時計がそろそろ十時を指そうとしていた。
「繁徳、あんたは帰りなさい。
親御さんが心配してるよ。
大丈夫、舞さんはあたしが預かるから」
「でも、その後はどうするんですか?」
繁徳は心の底にひっかかったままの疑問を口にした。
「大丈夫、なんとかなるよ。
……そろそろ増田の出番かもしれないね」
「増田さんの?」
「ここぞって時は頼りになるんだよ、あの男」
「あの男って、千鶴子さん……」
「なんだい」
「そういう言い方、ないんじゃないかなって」
「いいんだよ……
兎に角、世間的にも信用のある、あの男の出番だよ」
「そうなんですか……」
「仮にも、芸大の教授だった男だし、クラシック界ではちょっとは名の知れた重鎮なんだよ」
「そんなに凄い人なんだ」
「それだけのことだがね」
(なんか引っかかる言い方だな、千鶴子さん)
その言葉だけからでは、千鶴子が増田の事をどう思っているのかはわからない。
でも、増田のことを千鶴子が信頼していることだけは伝わってきた。
「さあ、さあ、あたし達はもう寝るんだ。
男は帰った、帰った」
千鶴子が繁徳を追い立てる。
「シゲ、おやすみ。また明日ね」
舞も観念したように微笑んだ。
(千鶴子さんと一緒なら、安心だな。増田さんも帰ってくるし)
繁徳は急き立てられるようにマンションの外へ出た。
頬に冷気があたる。
もう、秋だ。
不安はいつのまにか、軽くなっていた。
繁徳は、大きく一つ深呼吸をすると、そのまま夜の通りに駆け出した。