間違えたかな。

そう思う時は多いけれど、結局答えは見つからない。
誰も教えてくれないし、誰も知らないからだ。

知っている存在はいるかもしれない。
それは、宇宙の理の中か神々の世界かは分からないし人によるけれど
いづれにしろその答えを与えてくれるものは、人間の世界にはないという事。

音楽や芸術、人の成す技や物から答えを導き出す事はあっても、
それを「答え」として認識するのは結局、自分。
他人が答えを押し付けて来たんじゃない、自分がそれを導き出し答えとしたのだ。

たった一つの答えがあるなら、きっと分かりやすいけれど楽じゃない。
それを一度踏み外したらもう戻れないから。
だけど答えがたった一つじゃ無いなら、きっと人は何度でも這い上がって求めるだろう。
一つじゃない事は、迷わせるけれども救いでもある。

何事にも二面性、もしくは多面性が存在する。
それはまるで、万華鏡を覗いて回すかのように、
見る角度によって異なる。しかしどれもきっと美しい。
ただその手の中の万華鏡を回して見るかどうかは、その人自身に掛っている。
何かの拍子に揺らされて、違う模様が見えてしまう事もあるだろうし、
いつまでも今見える模様から目が離せなくなる事もあるだろう。
同じ模様を見る事は叶わぬ万華鏡。
全ては自らの手の内にある。


間違いを間違いとするのは自らの手であり思考であり心であろう。
間違いを間違いとさせないのはやはり自らの思いであり意志であり心であろう。
人は自由である。その人が自由だと思えるのであれば。
人は自由になる。その人が自由になろうとするのであれば。