「「東京郊外精神病院」…ここに和則ってやつがいるのか?」 
 アヒルがせわしなく泳ぎ、苔むした岸辺に野花が咲き乱れる。愛らしい小さい池をぬけ、ふたりはこっそりと精神閉鎖病棟の裏に忍び込み、窓から中を覗き見た。
「W・A・T・E・R、って知ってる?」
 おそらく、T橋和則であろうつるっハゲのボロいTシャツの男が、病人の大男に言っているところだった。和則は緑川の描写通り、「知恵遅れつるっハゲじじい」そのものであった。まず髪の毛が一本もない。耳のまわりにも、後頭部にも一本もない。陰険そうな顔で、鷲っ鼻で、やせっぽちで、声も変だ。四十二歳で、とにかく一目で「異常人」とわかる。ちなみに、Water(水)とは、和則が三日間猛勉強してやっと覚えた英単語だ。小学生低学年でもわかるような単語をやっと覚えた訳だ。
 大男は「さあ」と首をひねる。
 すると和則はにやりと勝利の笑みを浮かべ、「ウォーター、水!」と言った。
 和則が不意に、「ウォーター??」と呟き、振り向いて、ミッシェルは息を呑んだ。さすがのセロンも一瞬冷静さを失った。男が急にズボンを下げ、病棟の通路で「うんこ」をしだしたからだ。途方もない混乱というより、おそらく和則らしい男は恍惚の表情で、ババ垂れる。ミッシェルは吐き気を覚えた。セロンは一瞬、背筋が寒くなる思いで糞する和則とあわててやってくる看護婦たちに目を交互にやってから窓から離れた。「確かに日本一悲惨な男だ。あんなやつをどうやって救えば…いいんだ?」
 セロンが頭を抱えるとミッシェルが「とにかくここから和則を逃がすのよ!」 
「え?!」
「あの和則を救えと神様に言われたんでしょう?」
「あいつを逃がして…救えるのか?…あの糞ったれを…」
「とにかく」ミッシェルは頑固に言った。「とにかく逃がすのよ!」
 
 計画は単純そのものだった。
 深夜、閉鎖病棟の窓ガラスを破って、寝ていた和則を連れ去るのだ。計画は成功した。ふたりは和則を連れ出し、とにかく逃げた。駆けた。そして、さんにんは夜の闇に消えた。こうして、その日から、セロンと和則の人生を大きく変える奇妙な旅が始まるので、あった。