「壱さん、ただいま!」
授業を終え、寄り道もせずに真っ直ぐ帰宅する。帰宅と言っても、自分の家ではなく壱さんの家。
勝手知ったる彼の家に上がり込み、ばたばたと廊下を走りながら声を上げる。
「廊下は走るなと言っとるだろうが」
いつもの部屋の襖を引けば、壱さんが無愛想に私を叱った。
「だって壱さんに早く逢いたかったんだもん。毎日が休日だったいいのにね」
私がそう言うと、壱さんは勘弁してくれと言わんばかりに顔をしかめた。
敷居を跨ぐ前に、紺色の長い靴下を脱ぐ。
ささくれ立った古い畳の部屋では、靴下に畳の葛がついてしまうからだ。
「若い娘がはしたねぇな」
ぽいっと脱ぎ捨てた靴下を見て壱さんがそう言った。
「そう言うんだったら、畳買い替えるとかしてよ」
「………」
言い返した私の言葉はあっさり無視された。
素足で感じる古い畳の感触は少しくすぐったい。けれど、それも彼の生活の一部なのだろうと思うと、なんだか心地良い。煙草の不始末で出来た焦げ痕でさえ愛おしい。
壱さんは相変わらず煙草を吸っていて、部屋の中は白い煙が靄のように視界を悪くしていた。
しかし、当の本人はそれを気にする様子もなく新聞に目を向ける。
古びたラジオからは、夕方のニュースが流れていた。
私はそれを聞き流しながら夕食の献立を考える。
壱さんの家に通うようになる前は料理なんて全く出来なかったけれど、今では何でも作れるようになっていた。
料理だけじゃない、掃除も洗濯も、家事はほとんど出来るようになった。
とはいえ、壱さんに家事を要求されたことは一度もない。
壱さんが構ってくれないから、家事ぐらいしかこの静かな家では暇潰しがなかったのだ……。

