もちろん、売れっ子の椿は数え切れないくらいラスソンを歌ってきたと思う。


なのに、隣で「緊張するッ」なんて言ってマイクを握っては離して、その繰り返しだった。

可笑しくて笑いを抑えきれない。

「なんで緊張するの?何回も、歌ってきたんでしょ?」

そう訊ねれば、緊張する人の言葉とは思えない返事が返ってきた。


「お客さんの前で歌うのと、好きな人の前で歌うのは…違うじゃん?」

照れもせず『好きな人』って言葉を耳元で囁かれて、こっちが恥ずかしくなった。

何も上手い言葉が見つからず、どうしようかと俯きかけた時、店内の照明が一段と暗くなった。

前奏が始まる。

マイクを握りなおして「姫、ちゃんと聞いてろよ?」その言葉を残して椿は歌い始めた。




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