「いえ、私もぼうっとしてたんで。ほんと、すみませんでした」

そう思ったら後は早い。
相手の顔もろくに見ずに軽く頭を下げてその場を離れようと足を踏み出した。

「ちょっと待って!」

ところが後ろから制止のお声がかかり私はぴたっと止まざるを得ない。
無視するわけにもいかないので私は渋々振り向いた。

と同時に手首を掴まれたと思ったら何かを手に持たされぐっと重みを感知する。

「鞄、落としたのに気付かないで行こうとするから」

驚いて顔を上げれば、満足気に微笑む男子生徒。
私は男子生徒と自分の手に持ったそれを交互に見るとやっと自分の失態に気がついた。
顔が羞恥に染まる。

「う、わ、えとすみません! ありがとうございます……」

「いーえー。じゃあまたね春日原さん」

あれなんで名前知ってるのかと不思議に思った時にはすでに彼はその場を後にしていて、まあ同じ学年なら知っていてもおかしくないかと自己完結する。
もっとも、私は同じクラスの子しかわからないけれど。

ふーと息を吐き出して再び教室へ向かおうと方向転換する。

「春日原さん」

すると今度は右の方からお声がかかり、今日はなんなんだと悪態をついて視線を移せば。

「ねえ、今の奴、知り合い?」

なぜか引きつった笑みを浮かべる桐原君がそこに立っていて、廊下の奥を見つめたままそう訊ねてきた。

「今の? ああ、ううん、知らない人だよ。ぼうっとしてたらぶつかっちゃって」

「あ、そう、なんだ」

「もしかして桐原君見てた?」

「えっ、俺が見たのはなんか春日原さんがさっきの奴と話してるとこだったけど」

どうやら鞄落としたまま行こうとしたところは見られていないようだ。良かった。

「そっか。あ、教室行かなくちゃ! 遅刻しちゃうよ!」

桐原君を促して私も教室へと向かう。桐原君は数秒遅れて歩き出した。
そっか、三組と四組で隣だから教室入る間際まで一緒なのか。

私がそんな呑気なことを考えている時、後ろを歩く桐原君が不安げに顔を歪めていたことに、私はこれっぽっちも気がつかなかった。