母の病気に名前はない。寿命、、、そんな簡単なものではない。
口にするものが どんどんなくなり 衰弱していった。
もちろん、不謹慎であるが、癌とか、病名が、はっきりして、
余命がわかっていたほうが まだマシだ。
母の意識があるうちの会話は、電話越しの泣き声。
去年の正月、いつも 送る海苔とハトサブレと 川崎大師の御札の所望。
帰省を促す言葉はなかった。
とても見せられる姿ではない事を 嘆いていた。
なぜ、あの電話のあと 真っ先に 会いに行かなかったのか、、
後悔はない。 後悔はないが、もし あの時 帰省していたなら、
母はまだ、存命していたのかもしれない。
母は、3/9 いつものソファーに座り 父がトイレに行ってる間に
呼吸を止めた。父の応急処置で 一命をとりとめ、三ヶ月、病床に臥す。
母との会話は、正月でおしまい。 握っても 握り返さない手を 握り、
体温のあることを確認し、病院には さほど行かなかった。
私は冷たいのだろうか、、、
父は再三 声をかけてくれ と言っていたが、言われなくても
私は会話していた。 父に聞えない声で。
口にするものが どんどんなくなり 衰弱していった。
もちろん、不謹慎であるが、癌とか、病名が、はっきりして、
余命がわかっていたほうが まだマシだ。
母の意識があるうちの会話は、電話越しの泣き声。
去年の正月、いつも 送る海苔とハトサブレと 川崎大師の御札の所望。
帰省を促す言葉はなかった。
とても見せられる姿ではない事を 嘆いていた。
なぜ、あの電話のあと 真っ先に 会いに行かなかったのか、、
後悔はない。 後悔はないが、もし あの時 帰省していたなら、
母はまだ、存命していたのかもしれない。
母は、3/9 いつものソファーに座り 父がトイレに行ってる間に
呼吸を止めた。父の応急処置で 一命をとりとめ、三ヶ月、病床に臥す。
母との会話は、正月でおしまい。 握っても 握り返さない手を 握り、
体温のあることを確認し、病院には さほど行かなかった。
私は冷たいのだろうか、、、
父は再三 声をかけてくれ と言っていたが、言われなくても
私は会話していた。 父に聞えない声で。


