「とりあえず、何か食べない?」

男が言うから、

「あれでいいよ」

って私は、信号の向こうにある牛丼屋を指さした。


「は? あんなんでいいの?」

黙って頷き、信号が変わったのを見て先に歩きだした。


「ちょっ……」


慌てて後から追い掛けてくる男。

だけどその差はあっという間に埋まった。




「牛丼大盛りとみそ汁と……」

カウンターに座った男はそこまで言って、窺うように私の顔を覗き込んだ。

「……並」

「みそ汁は?」

「いらない」


せっかちな店員なのか、私達のやり取りをそのまま受け取り“かしこまりましたー”と言って奥に消えた。



実は私、こういうお店に入るのは初めてだった。


いつか行ってみたいって話をしたら、「女の子が入るもんじゃない」ってお母さんに反対された。


こっそりお父さんに話してみたら「今度一緒に行こう」って言ってくれた。



──その約束も、果たされることはなかったけど。



「まーた」

その声と共に左頬に小さく痛みが走る。


「暗い顔してる」

男に左頬を引っ張られていた。


「ちょっ……やめてよ」

その手を振り払って、大して痛くもないのに頬に手を当てた。


「なぁ、そういえば、名前は?」

「……別に何でも良くない?」


「でも、これから一緒にいるのに、名前くらいは知っといた方が良くない?」

相変わらず柔らかい笑顔を浮かべる男。



最初に感じた“色気”みたいな物は、すっかり影を潜めていた。