生活にさほどの支障をきたさない障害者は、その障害をなるべく隠すことが、、是となる気がする。
自分の身に余りあるほどのインフラが整備されている。その中で、些少の障害は、何物にも優先されるものでない。

あくまでも、、極論の例として、私の父母のことを語ってみる。
私の父は、、右耳が不自由らしい。。。。コレ自体は、手帳の交付の対象ではないらしく、父はむろん、障害者手帳をもっていない。だから健常者、、、とは、言い切れないのだが、私にとってのそれは、憎むべきものでしかない。

母の生前、喉の病のため声が出せない彼女、それでも言いたいことがあり絞り出す声の彼女に、もうしゃべらなくても良いと釘を刺したのは、父だ。

母が病に倒れる以前から、「は?」「え?」を繰り返し苦しめた父は、彼女からの最期の訴えまでも 反故にし続けた。

しかも、もっとも私が父のことを許せないのは、その父の右耳の不自由が母の攻撃によるものであるということを 母の他界の夜に聞かされたことだ。

ま、、母の生前、、いや、多感な頃の私が、、それを知っていたなら、、、父とは、生涯会話しなかったに違いない。