ところで、戦国時代の弱者とは、
悪意がそこにあったのだろうか、、、、
その弱者とは、、
結局 徳川に負けた 石田家だけのことではない。
その武将に加担した勇者たちのことも指している。

東に負けた西軍の宰相、、石田、大谷の輩は、、、程なく 大江山の鬼の称号に甘んじた。負ければ悪の権化なのだ。そこにあるのは、正当な善悪の判断でもなく、神の審判でもない。欲という人間の悪意が生み出した世間という悪意潜伏審判なのだ。

欲が悪意の権化なのか、、、、そのことは、後日 詳しく述べることにする。
が、しかし、少なくとも、、石田も大谷も、目先の欲には刈られてはいない。むしろ、物欲とは程遠い自家保身のみで 悪の権化 ”徳川”に 挑み、敗れた。たとえば、生前の彼らが、武士道ゆえだったのか、政権保守のゆえだったのか、定かではなかったにせよ、勝って、豊臣の天下を継続していたなら、後に史実となる太平洋戦争は、実現未だ成し得なかったのかも知れない。

悪意はあるのだ。たぶん。なにしろ、天下取りのために幾人もの殺害を繰り返すのだから、気づく気づかない如何にせよ、そこに悪意がないわけはない。いや、悪意なく天下泰平のために殺戮付き戦闘を繰り返していたのなら、、それこそ、、、鬼畜以外の何者でもない。