倒れたのは一人の女であった。頭髪は半白で、着物の至る所が破けている。この女は道端から突然車の前を横切ろうとしたのである。
 車夫はもう女から車を離し終えていた。女の破れた綿の袖無しは、喉元の釦《ボタン》が無くなっていて、風に吹かれるたびに外側にはだけてしまうらしい。その所為で梶棒に絡まったのであろう。運良く車夫が寸前で車を止めなかったら、女は大きくもんどりを打って転倒し、頭を叩きつけて血を流していたかもしれない。
 女が地面に伏したままなので、車夫も足を止めてしまった。私はこの老婆が怪我などしていないことを確信していた。他に見ている者もいない。だから車夫のでしゃばりが真に腹立たしかった。もし揉め事を起こせば、私の到着が遅れてしまうのである。
 私は直ちに車夫に告げた。
「何ともないだろう。出発したまえ」 
 車夫は少しも気にかけずに――あるいはそもそも聞こえなかったのかもしれないが――車を置くと、老婆をゆっくりと助け起こし、手を貸して立ち上がらせて、老婆に尋ねた。
「大丈夫かい?」
「転んで怪我をしてしもうたんじゃ」
 私は思った。
『お前がゆっくりと地面に倒れるのを、私はこの目で見ていたんだよ。怪我をするような転び方ではなかったじゃないか。大げさに振る舞っているだけなのだ。なかなか小賢しい婆さんだね。車夫にしてもお節介な奴だ。自分から面倒を抱え込んでいる。一人で解決してくれるんだろうな』