その時に起きたことは、恐らく起こした張本人以外にはまったく予想外だったろう。武人から一番離れた位置、鱗のある皮膚は、通りざまに鋭い爪に切り付けられて薄く破けた。正確に言うなら、後ろから物凄い勢いで飛んできたモノの爪が当たってしまったのだが。彼らが振り返る先、薄暗くなり始めた道の先にいるのは、驚きで再び地面に落とされた武人しか知らなかったが、痛みを耐えて見たその姿は、どうにも信じがたいものだった。

「なんだテメェはっ!」

「秀、き・・・?」

そこに立っているのは間違いなく秀樹のはずだった。見慣れた服装も、その表情も。ただ、身に纏う異様な雰囲気と、右腕を覆っている透明なものは、武人でさえ、それを秀樹と思わせなくするような絶対的なものだった。

「なんだって聞いてるじゃん。答えろよ」

秀樹の肩に手を置いた一人が、そのままの形で動かなくなった。秀樹が軽く振り払うと姿勢を変えることなく傾き、地面と触れた衝撃で粉々に砕け散った。

「・・覚悟はいいだろうな」

ただ一人立って秀樹と対峙している男の額には汗が浮かび、険しい表情を浮かべていた。

「んなもんする時間があったら、こーしてやるぜっ!!」

振り上げた腕は鋭い鱗が刃のように並んでいる。勢いよく振り下ろされるそれに、武人は思わず眼をつぶった。しかし予想していた衝撃はなく、温かいものが顔にこぼれてくる。開いた視界に飛び込んだものは、上半身を赤く染めた秀樹の姿だった。

「秀樹っ!」

素早く動いた秀樹の右腕が男を飛ばし、公園の塀へと叩きつけた。男は悪態をつきながらも起き上がって逃げだし、秀樹の体はその場に崩れ落ちた。少しふらつきながらも体を起こした武人が秀樹に触れようとして、乾いた音と共に振り払われた。秀樹の手を覆っていた透明なものはもうなくなって、苦しそうに浅い息を繰り返すだけで動こうともしない。左腕は根元が辛うじて繋がっているだけになっていて、危険な状態だった。

「触る、な・・」

途切れ途切れの弱々しい声は、どうにか武人の耳まで届いた。たったのその一言は、武人を激怒させるには充分過ぎる言葉だった。

「何いってんだよ!さっさと治療しねぇとヤバいだろうが!!」

そう言って再び伸ばされたその手は、またしても秀樹自身に阻まれて届かない。武人が口を開いたそのとき、一歩早く秀樹の苦しげな声が聞こえた。

「見た・・だろ。・・・・鬼憑き、だ・・」

絞り出すような声は、決して怪我だけのせいではないように思える。武人は何か言おうとしていた口を噤んだ。そのまま引きかけていた秀樹の腕を掴みあげると、勢いに任せて体の下へ潜り込んだ。背負われる形になって初めて、思い出したように秀樹が体を捩った。

「ばっか、落ちるだろうが!!暴れんな!」

「どっち・・が馬鹿、だ・・・・」

「いいから動くなっての!」

叫ぶような強さで言うと、武人は半ば強引に歩きだした。未だ止まらない血で滑る秀樹の体を縛り付けるように手をまわし、施設への道を急いでいく武人。だが道半ばくらいまできて次第にペースが落ちていき、施設が見える位置まで来たというのに、背中の秀樹ごとその場に崩れた。

「・・っは、ぁ・・・・くそっ!」

武人は悪態をつきながらももう一度立とうとするが、先程のダメージと体に回りだした毒素でうまく力が入らない。

「置いて、け・・よ」

微かな呟きの直後、乾いた音が静寂を作った。力一杯振り抜いた右手は宙に浮かせたままで、武人は全身で呼吸をしている。全力だったはずの一撃は、それでも秀樹の頬をほんのりと染めることしかできなかった。

「ぜってぇ・・・・連れ、て・・帰るっ!」

血塗れの二人が入り口付近で倒れてるのを発見されたのは、日付も変わろうかという頃だった。