紗里がこの場所へ来て数分も経たないうちにあの男はやって来た。


自分の身に起こったことが理解できず、呆然とするしかない紗里に男は話しかけた。


細くしなやかな体つきと、つり上がった切れ長の右目と眼帯の左目。笑みを浮かべる横長の口は蜥蜴を連想させた。




「あんたが新しい漂流者だね。来て早々にアレだけど、死んでもらうよ」




紗里は耳を疑った。


そんな言葉を自分が聞かされるとは夢にも思わなかった。
しかし、男の手に握られたナイフが、それが冗談ではないことを物語っていた。


振り上げられたナイフに紗里は反射的に走り出した。


追いかける男は紗里を追ってゆっくりと歩き出す。




まるで獲物をわざと逃がして楽しむように。




闇雲に走る道は続いているのか、どこへ向かっているのか分からない。


ぽつぽつと頼りなく灯る外灯は、行き先を示すことはなく、
紗里の背丈よりも高い、継ぎ目なく続く土壁や、蜘蛛の巣のように頭上に張り巡らされた電線でさえ、紗里を追い詰めていく様に視界に迫って見えた。


走り続ける疲労と恐怖で上手く呼吸が出来ず、紗里の呼吸は声音が混ざる。
酸素を無理矢理体に入れようとする度に肺が痛んだ。



不意に背後に迫っていた足音が消えた。



音だけを頼りに逃げていた紗里にとって、それは恐怖を増長させる信じがたい事態だった。
思わず振り向くと、そこに男の姿はない。


その代わりに外灯が作り出す仄かな光が、辺りを染め始めた夜の闇の中に影を描いた。




紗里の形の影と、その上に重なって通りすぎていく男の影。




影が動く意味を紗里が理解したときにはもう、男は紗里の頭上を音もなく飛ぶように越えて待ち構えていた。