碧はそっと目を閉じた。
「つまらない理由だよ。好きだった同級生に騙されて、赤っ恥をかかされて、いじめの対象になって…… 今思うと、本当につまらない……」
美雨は碧の横顔をずっと見つめていた。碧はその視線を感じながらも決して目を開けることはなかった。
「愛って何かわからなくて、愛されているって実感を受けたことがなくて、母親に愛って何か聞いたんだ」
「お母さん、何て?」
「面倒くさいこと聞かないでって」
碧の表情はみるみる強張っていった。
「『じゃあ、なんで僕を産んだの?』 そんな馬鹿なことを聞いてしまったんだ。母親との思い出を辿れば、十分愛情を感じられたのに…… その場の母親の言葉を鵜呑みにして…… 僕は大切なものを投げ捨てた。疑う必要さえなかったのに……」
碧はグッと涙を堪えると、ゆっくりと目を開けた。そこには優しい笑顔の美雨がいた。
「お母さんがなんて言ったのかわからないけれど、きっと勢いで言っただけね」
美雨は優しく、しかし、力強く碧を抱きしめた。
 碧は堪えきれずに涙を溢した。
「十分、温かいよ」
碧の言葉に美雨は切なさを溢れさせた。その感情を悟られないように下唇をかみ締めた。
 風に揺れる木々が優しい葉音を鳴らした。
 碧は顔を上げると、美雨の目を見つめた。
(後悔したくない)
碧は穏やかに微笑んだ。
「君が好き」
碧が言葉を発した瞬間、一斉に音が止んだ。
 美雨は精一杯穏やかな表情をしたが、目が哀しみに満ちていた。
 美雨の瞳に涙が溜っていった。美雨の表情から喜びの涙ではないことは明確であった。
「ありがとう。 ……でも、ごめんなさい」
美雨はポツリ言うと、ゆっくり立ち上がった。そして、逃げるように駆け出した。
 碧はその場で静かに顔を伏せた。

 碧が告白をして一週間が経った。顔を合わせるのが気まずくて、碧はベンチへ行くことをやめていた。
 碧は医師に呼ばれた。そして、その場で退院を告げられた。
 碧の心は忽ち不安で一杯になった。
(まず、家を探さないと。それよりも仕事が先かな)
碧は長いため息をつくと、窓から差し込む夕陽を見ながら物思いにふけった。