正確に一組の会話も聞き取れないような、人ごみが生み出す騒音の中。

 囁いているだけのような少女の声だけはしかし、どうしてかはっきりとおれの鼓膜を揺らしている。

 これもどうしてかはわからないが、ただ、おれはもう一度大きく頷いた。わからない、本当にどうしてかはわからないが、頷かなければいけない気がしていた。

「そうか……覚悟はいいのだな。もう、後戻りは出来ない。すぐに、刻(とき)が動き出す」

 そう言い残して、おれの視界から少女は突如姿を消した。それは、本当に一瞬の出来事だった。

 よくありがちな、ドロンと音を立ててだとか、煙に巻かれてだとか、そんな消え方ではなく、本当に一瞬で、周囲に何の変化を引き起こすこともなく、ただ、消えた。

 直後。

 おれは再び、眩暈に襲われ、足元が浮ついた。

 その感覚は先程よりも激しいもので、おれは思わず転びそうになった。

 おれは耐え切れず、その場にうずくまってしまった。

「っ痛いわね! なんでこんなところに座っているのよ、ほらほら、邪魔邪魔! どきなさい!」

 誰かが、うずくまっているにおれにぶつかったらしかった。

 見上げると、そこには美人が立っていた。

 肩より少し下まで伸びた艶のある漆黒の真っ直ぐな髪を春風に揺らし、グレイのスーツに身を包んだ超絶美人が――。