泣いたら、泣くから。


 名を浅野という医師は姪の担当医なのだという。
 笑うと目の端にシワがくっきりと刻まれる優しそうな人で、その見た目どおり浅野は、なにもなかったのならそれでいいと兄と春乃に手を振っていた。「――でも」


「大声を上げるのだけはやめてください。患者さんに障りますから」
「……すいません」
「先生ありがとうございました」


 
 頭を下げる兄はまだ怒りがおさまらないらしく、苦しまぎれに寄る眉がぴくぴくしていた。


 さっき、兄は理性を失うほどわたしを憎んでいた。恨んでいた。
 どろどろした暗い感情はそう簡単に消せるものではない。
 今も兄はわたしにたいして激しい憎悪を抱いているはずだ。

 拳に込められたいろんな思いを、姪のためを思って集まった黒い感情を、――姪自身に遮られ、あげく無関係の医師に止められた。

 これらはきっと兄の気持ちを逆撫でし、ますます怒らせたことだろう。


 申し訳ない気持ちが胸を締め付ける。
 いま、わたしが兄の思いを受け止めることが出来ていたのなら、すべてとはいかずとも、みんなの心のさざ波を鎮められたのかもしれないのだから――。





 しかし。
 その実、内心ではほっとしていた。

 なぜなら、わたしは結果として兄に殴られずに済んだのだから。





 ……自分でも情けないヤツだと思う。

 
 兄の拳固を受けず済んだことに安堵感を抱いている自分に嫌気が差す。
 姪が痛い思いをしなくてよかった。
 そして、わたし自身も傷つけられず今こうして立っている。

 ――ああ、よかった。

 痛いのは、苦しいから。出来ることなら避けたい。


 
 わたしは、わたしが大事なのだ。

 


 今も昔も変わらない………わたしはどうしようもないやつだ。



 

 不意に姪のつむじが視界から消え、黒目がちな目がわたしを見上げた。



「だいじょうぶかい?」



 姪はかすかに頷き、微笑んだ。そして、なにかを言おうとして口を開いた。
 声を拾おうと顔を近づける――




 ――そのとき。


 姪の顔がぐにゃりと苦悶に歪んだ。




「一花ちゃん!?」