取り返しのつかない事件が起こったのは、何気なく聞き流したあの言葉が発せられた日から、僅か数日後のこと。

「ひ、日野君!大変や…!」

千鳥のクラスの副担任が、俺を呼びに来たところから始まった。

最初は千鳥が倒れたりでもしたのだろうかと呑気に構えていたが、副担任から興奮気味に告げられたその現実離れした内容に、頭が真っ白になったことを今でも鮮明に覚えている。

「千鳥君が岸本先生を階段から突き飛ばしたらしいんや」

岸本先生とは千鳥の担任で、確か今は、

「それで、どうやら出血がみられたみたいでな」
「!!!」
「赤ちゃんはもしかしたら…」

再び、頭が真っ白になった。何で、どうして、千鳥が?

頭に浮かぶのは疑問ばかりで、単純明快な答えがすぐそこに用意されているというのになかなか辿り着けない。そうして答えの出ないまま千鳥の姿を視止(みと)めてしまったから、余計に何もかもがわからなくなってしまった。駄目な兄貴だったよな、俺。

「………アス兄?」

表情を変えることもなく、千鳥は階段の上にいた。その下、つまり俺の目の前に広がるものは、まだ乾ききっていない生々しい鮮血。

「何がいけんかったんやろう?」

けろりとした声に背筋が凍る。千鳥は悪いことをしたなんて思っていない。罪悪感の欠片も持ち合わせていない。怖いと、思った。

何も喋らない兄に焦れたのか、千鳥は不思議そうに顔を覗き込んできたり手を振ったり、首を傾げて制服の裾を引っ張ったりして、懸命に俺の気を引こうとしてくる。それでも、喉の奥で(つい)えた声は表に出てこないし、体もピクリとも動いてはくれなかった。

この時、なにか声を掛けることが出来ていたのなら、それこそ殴ることが出来ていたのなら、未来は変わっていたのだろうか。

今さら、わからない、けれど。

程なくして顔を真っ青にした母さんが現れた。呆然と立ち尽くす俺と普段通りの千鳥を一緒くたに強く抱き締める。思えば母さんが怒鳴ったり手を上げたりしている所なんて、見たことがなかった。

ああ、そうか。痛みを知らない俺たちが、他人の痛みに気が付くはずもない。千鳥だけじゃない、俺自身にだって言えることだったんだ。幼い頃に父さんが病気で死んでしまい、それから母の愛を一身に受けてきた。それは決して悪いことなんかじゃない。

でも、甘すぎたんだ。父さんへの愛情がそのまま俺たち兄弟に注がれた。純粋に子供へと注がれる愛情と、父さんの分の愛情。もう失いたくないという母さんの想い。それが(かえ)って大きなものを失わせてしまった。母さん、千鳥、父さん。ごめん、本当に、ごめん。