人は、殴られた奴よりも殴った奴の方が痛いという話をどこかで聞いたことがある。まさにその通りだなと思った。手が痛いわけじゃない。心が痛い。暁人も少しは感じているのだろうか。

殴られた箇所ではなく、心に痛みを。

「――っ、」

派手に吹き飛んだ眼鏡を探す素振りを見せる暁人に、手を伸ばしかけて指を折る。殴った俺が何をしようとしているんだ。

沈黙に混ざる決して和やかではない僅かに棘を孕んだ空気。皆の視線も相俟って、居心地は最高に悪かった。そんな空気のなか、ただ一人動きを見せたのは意外な人物で、瞠目(どうもく)する。

「あ、う、めっ、め…」

小さな歩幅で、でもしっかりと地に足をつけ、暁人の眼鏡を宝物のようにそっと拾い上げて差し出す桜木。自分がどれだけ酷いことを言われていたのかなんて、解っていないのだろう。その行動がとてもいじらしく健気に見える。なあ、暁人。見えているか。

いつもお前は言っていたよな。人間は綺麗な生き物なんかじゃないって。けれど、こんなにも優しさで溢れていることにも気が付いて欲しい。気が付いて欲しかったんだ、俺はずっと。

暁人を見ていると、千鳥を思い出す。自分の気持ちに正直が故に人を傷付けてしまい、苦しんで壊れていってしまった弟を。

『アス兄、ぼくはもう死にたいんや』
『……ちぃ、なにを、』
『ぼくは、生きとったらダメな生き物なんやろう?』

弟と交わした最後の言葉は、哀しすぎるものだった。

小学校四年生の時から弟の時間は止まっている。それは今も動き出すことは叶わず、ただ悪戯に齢だけを重ねて生きているけど死んでいる、そんなフィクションみたいな地獄の日々が、延々と。

可愛くて、憎めなくて、残酷だった弟の千鳥。年子である俺達は特別仲が良く、いつも一緒に居た。四六時中、一緒に居た。

暁人のように、猟奇的な事件やホラー映画が大好きだった千鳥。自分自身も苦手ではないからと、よく一緒になって話をしていた。思えば、止めることが出来たのは兄である自分だけだったのに。

「アス兄、人を殺すってどんな感じなんやろうな?」
「ちぃ?」
「ははっ!冗談や、冗談!」

無邪気な笑顔の下に隠れていた、本当の顔に気付けもしない。甘かったんだ、俺は。弟の中に住み憑いた〝狂気〟の存在にどうして気付いてやれなかったんだろう。あんなにも一緒に居たというのに。