「どうだい、お茶でも飲むかい?」
浮浪者はそう言って、まさぐっていた中からペットボトルのお茶とコップを取りだした。 そして、
「イヤだったら、いいんだよ」
とやさしく言った。
「ううん、頂きます、喉乾いてるから」
と優子は答え、浮浪者の方へ歩み寄った。 目が闇に慣れ、顔がさっきよりもよく見えた。 長い髪がゴミと油にまみれて捩(よじ)れ、まるで何本かづつ束ねられた弁髪(べんぱつ)のようだった。 顔は日焼けと垢で黒く汚れているが、やさしそうな眼が微笑んでいた。 饐えた臭いが、やはり鼻を突いた。
段ボールの上に置かれたコップを一気に飲み干すと、優子は地面にしゃがみ込んだ。
「そんな処に座らないで、良かったらここに座わんなさいよ」
と浮浪者は地面の段ボールを軽く叩いた。
「臭うだろ、ごめんね」
浮浪者は手にした週刊誌で自分の方へ風をやりながら言った。
「うん、でも平気、この方が話しやすいから」
闇の中に、桜の花びらが散っていた。 細かく砕かれた母の骨が、闇を舞っているような気がした。
「もうそろそろ、桜も終わりだね。 知ってるかい? 桜が何で綺麗なのか」
「花の命は短いから、だから神様が美しくしたって聞いたことある」
「そうだねえ。 それもあるんだろうけどね、桜の下には屍体(したい)が埋まってるからだって、言った人がいるよ」
と浮浪者は言うと、すぐ、
「いやだねえ、私って。 あんたみたいな若い人に、こんな話して・・・。只でさえ落ち込んでるのにねえ。 ごめんね」
と優子のコップにお茶を注いだ。
そうかも知れないと優子は思った。 根本に埋まっている母の精が、幹から枝へと伝い綺麗な花になって、そして散っているのかも知れない、だからさっき母の骨が舞っているみたいに感じたんだと思った。
「こんな世界に住んでたら関係ないけどね。 優子ちゃん専用みたいなもんだよ」
と言って、浮浪者は今井安佐子と名乗った。
真夜中近くなって、優子は家へ帰った。 父は帰っていない様子で、継母と義妹は眠っていた。 そっと自分の寝床に滑り込むと、すぐ眠りに落ちた。 安らかな眠りだった。
