何もかもが湿気を含んで噎(む)せ返るような、夏休みも近い日だった。 裏山に絶えることのない蝉の集(すだ)きが教室を満たし、開け放った窓から飛び込む蝉が、短い羽音と鳴き音(ね)を立てて子供たちの心を漫(すずろ)にしていた。 時折、涼風が教室を吹き抜け、教科書のページを白く翻めかせている。 
 
 小高い丘に立つ校舎の遙か向こう、箱庭のような町並みの上には、隆々(りゅうりゅう)と嵩(かさ)を増す入道雲が広がり、灰色の裳裾(もすそ)は柔らかい光を内に含んで胎動(たいどう)していた。 小さく遠雷が聞こえ、入道雲の下には煙雲のような雨脚が見えた。 窓際の優子は先程から教師の目を盗んで、時折その入道雲に見入っていた。 力強く青空に広がって行く入道雲は刻々その形を変え、見ていて飽きなかった。 一点の雲もない澄んだ青空も好きだったが、その青空を見る見る覆い隠す暗雲の力強さにも優子は引かれた。
 
 初老の男の用務員が廊下を足早に来ると、戸口で女教師と何かを話している。 教師は耳を傾けながら、時折優子の方へ視線を走らせていたが、やがて足早に優子の席にくると辺りを憚(はばか)るような小声で、 
 「あのね、優子ちゃん、親せきのおばさんが迎えに来てるから、今から一緒にお家へ帰えるのよ。さあ、用意してね」
 と息急くように言った。
 お母さんが帰ってきたんだ、優子の胸は弾んだ。 
 
 三日前、学校から帰ると母の姿はなく、珍しく父の耕三が居た。 優子が、お母さんは? と聞くと、耕三は新聞に目を落としたまま、
 「田舎に帰ったから、暫(しばら)く帰ってこないよ」
 と怒ったように答えたのだった。 
 
 校庭の傍(そば)を帰る道は、優子たちを急き立てる様に蝉時雨(せみしぐれ)が耳を聾(ろう)していた。
 「おかあさん、帰ってきたの?」
 と優子は聞いたが、伯母は口を噤(つぐ)んだまま怒ったように優子の手をぐいぐい引っ張って歩いた。 背中のランドセルの中で、母が買った筆箱がカタカタと鳴り続けていた。 いつもと違う伯母の様子に、その横顔を見上げながら、言いしれぬ不安が汗と一緒になって優子の体中に吹き出していた。
 夕立が来そうだった。