白桜が初めて表舞台に立ったのは、この国、松代を徳川家康の六男忠輝が治めていたときのことであった。この忠輝は徳川の直系の息子の中でも最も非業の死を遂げた人物である。

忠輝は、おじであり当時虎視淡々と天下を睨んでいた名将伊達政宗の計略の一端をにない、結果政宗に踊らされ…家康に処断された武将である。

六男にして、才気縦横、短慮と短気が欠点であったものの、世が世なら天下を狙えた立場にあった。

当時金山奉行として莫大な富を手にしていた大久保長安と伊達政宗とで、バテレン、エスパニアを扇動、一気に江戸を急襲し、これを殲滅する計画の首謀者でもあったのである。

『武将』としての忠輝はまさに時の人となり、この恐ろしい計略を知った家康は子への愛と徳川治世のための義との間で苦悩し…伊達政宗を後の副将軍とし、忠輝と長安を切る結論に達したというエピソードはあまりに有名である。
一方、これに対して、忠輝支配下の松代藩の民が酷い惨状を呈していたことは比較的知られていない。