さて、時代は戦国に遡る。

当時、武田勝頼に家督を譲ることを決め、自ら命をかけて京を目指し天下に邁進しつつあった信玄には、自分が死した後の未来に向けての悩みがあった。

信玄は、『武の人』というイメージをもたれがちであるが、これは上杉謙信との度々の戦のイメージが定着したもので、むしろ本来の信玄は『治世の人』である。
そして、上杉謙信が、朝廷に頼られ、これにはむかう敵を次々と『正義』の名のもとに戦い撃破していったように、謙信はこの『大義』によって、家臣をひっぱっていったリーダーであったのに比べると、信玄はその性質として、豊臣秀吉に近いものがある。

すなわち、『民を愛し、人を愛する』ことによって、家臣や領民は信玄を慕い、戦では死人の覚悟をもって信玄に尽力したのである。

戦の方法論でも、それははっきりと出ている。信玄は戦の戦法や武装を『いかに死者を少なくするか』という点を重視して作り上げたのである。