「はい…」
(これからまたずっと)
その言葉の意味をかみ締めたとき、紗枝の目から涙がこぼれおちた。
「さあ。」
内側からこみあげる万艱(ばんかん)の想いに小さく背中を揺らしながら動けなかった紗枝は、母に促されてようやく風呂場に向かった。

廊下でチラリと父親の後ろ姿を見掛けたが、今の紗枝にはかける言葉もなく、ただその後ろ姿に軽く一礼をしただけであった。
(お父様・・・申し訳ありません。)
紗枝には、父親の愛が苦しいほどに伝わっていた。もしかして、これを裏切る行為を自分がしているのではないか、そういう気持ちが彼女に父親への言葉を失わせたのである。
その部屋を通り過ぎて、廊下をさらに奥へと歩いていくと、次第に風呂場の方から柚の香りがただよってくる。これも母親が気をきかせてくれたのだろう。紗枝にはその優しさのひとつひとつが、ただただありがたかった。