それほどに諏訪への不満は民の中に蔓延していたのである。
諏訪がそれだけの覚悟を決めていたとしても、その下にいる領民にはなんの関係もないことだ。これが凄惨な目にあうことだけは避けなくてはならない。

そして、もうひとつ。
常篤は先代からこう教えられていた。
『ある考え方には、それと同等の重さを持った考え方が必ず他方にあるのだ』と。

つまり・・・
諏訪の行っている政は、表面上悪の一面をもちながら、その逆には、それだけの覚悟と理想をもって行われているかもしれないのである。

現に藩内の財政は多大なる犠牲を出しながらも、すでに借金借財はなくなったと聞いている。いま少し待てば、この改革は今後、民にとって住みよい藩へと変革するための方向性に進むのではないか。

つまり『私怨』として『村の庄屋』として、諏訪を斬る理由ははっきりと存在する。しかし、『白桜』の剣と奥義をもって、これを斬るべきであるかといえば・・・つまり『公の義』をもってこれを斬るばきかと言われれば、そこには疑問が残る。