田畑の手入れに朝から晩までかかる春から秋の時期も関係なくこの開墾作業は進められるのだ。ただでさえ日照りで凶作が続く今の状況で、最大の働き手である大人を借り出すのは、まさに無謀でしかなかった。
「諏訪様はわれらに死ねといわっしゃるのか?」
村民たちが次々とそのお達しを聞いて、常篤のもとに駆けつけた。
「ただでさえ人が足りねえんだ。こんな中、半分以上もかりだされたら、ワシらのたんぼは荒れほうだいでつかいものにならねぇくなるだ。」
「そだ。こんなむちゃはねえ!」
怨嗟の声は常篤だけではなく、藩中に広がっていた。

しかし、この改革はそんな民の怒りや悲鳴を無視して、強い意思と強制力をもって実施されたのである。

これに従わない村は、さらに重い徴用を受け、場合によっては数人の者が責任を取らせられ、みせしめに斬られた。仕方なくこれに従う藩内の村々。まさに藩内の政は、一触即発の緊張をもって、進んだのである。
この新たな農地開墾については、
『その開墾した土地はその農民のものとなる。』
との大義名分が付されていた。