信雄も家康も秀吉の財力・兵力に圧倒されていたことは事実で、11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。

また、家康も信雄が講和したことで秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。

家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。

…ここまでが史実で語られている歴史。

だが、これには続きがある。

半蔵頭領に率いられ、家康を護衛しつつ三河に撤退する伊賀忍軍。

戦場には秀吉の兵もまだチラホラと見受けられた。

累々たる屍の中、戦場を後にする私達。

その最中。

「!」

私と甲斐様は確かに見たのだ。

具足に身を包み、姿こそ兵卒に扮しているが。

変装して身を隠しながら秀吉を護衛する、初代下山甲斐…甲斐様の父上の姿を。