pp―the piano players―

 幼なじみ。
 それはわたしたちの約束の言葉だった。
 『ゆききの園』の子どもたちは、お互いのことをそう呼んだ。同じ場所で共に生活するわたしたちをお互いに、あるいは他人に話すには、丁度良い言葉だった。
 先生の家で暮らすようになってからも同じだった。わたしたちは「幼なじみ」で、家族――きょうだいではなかった。まして恋人でもなかった。
 でも、いや、だから、わたしは圭太郎君の家族になりたい。あのとき、わたしの手を引いてくれた圭太郎君が、どんなに世界を飛び回っても、安心して帰って来られる場所になりたい。


 圭太郎君の顔が歪む。
 わたしは圭太郎君に再び触れようとして右手を伸ばし、あ、と思い、手をすくめた。わたしの思いは圭太郎君にとって迷惑なのだろうか。

 そのとき、絵美子ちゃんはモーツァルトを弾き終えた。パラパラと拍手が上がった。
 ややあって、遠くからピアノが聞こえた。いや、ピアノが遠いのではなくて、めいいっぱいに抑えているのに、はっきりと聞こえる音。ドビュッシーの『月の光』。ピアノに目をやると、弾いているのはサビーナさんで、絵美子ちゃんはそのすぐ隣に立って演奏を覗き込んでいる。
 小学生とは全く違う質の演奏に、空港内の人々がざわめく。ピアノを遠巻きにして、人垣ができていく。
「Sabina Dumer」
 と、誰かがピアニストの名前を興奮気味に口にしている。何語だろう。ここは国際線が近い。

 引き込めようとした右手を、後ろから掴まれた。酒井君の左手が、私の手を取る。怒ったような表情の酒井君は、圭太郎君の右手も掴んで、わたしたちの手を強引に引き寄せる。わたしの手の上に、ゴツゴツとした圭太郎君の手が触れる。それのさらに外側に、酒井君の手があった。
「圭太郎」
 酒井君は語気を荒げる。
 先ほどの圭太郎君の怒号ほど周囲がざわめかないのは、いまサビーナさんがこの場の衆目を集めているからだ。
「高校生のとき、僕に言ったろう。『早紀を後悔させるな』って。でも、自分は良いのか、早紀を後悔させても」
 酒井君は肩をゆっくりと上下させて話す。爆発しそうな心を努めて落ち着かせている。
「早紀が、やっと、自分の思いを伝えている。それなのに圭太郎は、僕を言い訳にして、それを拒もうとしている」
 圭太郎君は、重なった手に落としていた目線を、酒井君へ向けた。睨みつけている、と言っても良い。
「良いか。圭太郎、君の音はずっと、早紀に向かっている。今朝の『献呈』も、この間の『さくらさくら』も、五年前の『愛の夢』も、僕が初めて先生の家に行ったとき弾いていた『エオリアンハープ』も、全部だ。コンクールの演奏も、協奏曲も伴奏も、全部、早紀に届けたくて、聴いてほしくて弾いているんだろう。演奏を見ても、映像や音源だけでも、それは伝わってくる。君の音は、君の口よりも素直に、まっすぐに、早紀にずっと伝えている。早紀を⋯⋯」
 わたしたちの手を挟む酒井君の手に、力と熱がこもっていく。
 酒井君は、わたしを見た。
 それから、圭太郎君を見る。
「⋯⋯僕が口にして良いのか? 僕は君が言うように相当な『お人好し』だろうけど、今、僕にそれを言わせてしまうなら、僕は君との仕事をここで投げ出すぞ。僕は、吉岡圭太郎というピアニストの、強い思いがこもった音楽にどうしようもなく惹かれているんだ。だからこの仕事をしているんだ。吉岡圭太郎の音楽を黄色のレーベルをつけて世界中に届けたかったけれど、そんな気概のないピアニストなら、全部白紙にするぞ」

 圭太郎君は眉を下げ、肩を落とした。
 頑張ったご褒美を子どもから取り上げるような、酒井君の脅しに、わたしも力が抜ける。
 力が抜けたところを、圭太郎君が酒井君の手もわたしの手も振りほどく。そして、温かいものに包まれる。圭太郎君の腕に包まれる。

「⋯⋯何と言ったら良いのか、よく分からない。何を言っても、陳腐な気がする。でも他人は、こう言うんだ。早紀、」
 自分の気持ちを伝えるのに、こと、くどくど言う。
 うん、これが圭太郎だ。
「愛している」