「ふざけるな!」
圭太郎君の怒号が、ロビーに響き渡った。
周囲の目が一斉にこちらに向けられているのが分かる。でも、私は動じようがない。圭太郎君の言葉の続きを待つ。怒鳴られているこちらが、感情的に反応しないし、圭太郎君も決して暴力に訴えているわけではない。周囲は、何かを囁きながらも、わたしたちを通り過ぎていく。
「どうしたのよ、大きな声を出して」
と、ニーナさんが駆け寄ってきた。加瀬さんもやって来る。
ピアノの音は一瞬止まったけれど、再び鳴り始めた。
でも、圭太郎君の目には、他の人の景色なんか映っていない。
ただ、わたしを見ている。
「ふざけてなんか、いない。わたしは、酒井君のプロポーズを断った」
「どうして。ナオには全部話したんだろう。お前が、全部話して、託して、委ねて良いって思える相手なんだろう」
その問いかけにも、頷く。
「ナオはお前を支えてきたんだろう。お前も、ナオを大切にしてきたんだろう。だったら、それで良いじゃないか。ナオがそばにいれば、お前は不安じゃない。ナオといれば、お前は、笑っていられる。そうじゃないのか」
圭太郎君の声が震える。黒く光る瞳に、涙が浮かんでいる。
わたしは、目の前の圭太郎君に腕を伸ばし、抱き着いた。
圭太郎君の鼓動が聞こえる。速く打って、戸惑っている。
「早紀」
わたしの名を呼んで、振動する胸。
わたしはずっと、圭太郎君にこうしたかった。
圭太郎君の胸に顔を埋めながら、ゆっくりと息をする。圭太郎君の匂いで胸がいっぱいになる。先生の家の石鹸の匂い。
「わたしは、幸せになりたい。そう思っている」
「だったら」
圭太郎君の手がわたしの肩を掴んで、そして体から引きはがす。
「ナオがいる」
そう怒ったように口にしながら、圭太郎君は首を振った。
「俺は、ピアノを弾きたい。お前は日本で、昔の俺たちみたいな子供たちを救いたい。だから、俺たちは、一緒にいられない」
わたしも首を振った。
そんなことは、もう、何度も、何度も考えてきた。
でも、先生が倒れたと聞いたとき、もしかしたら、と考えたとき、怖かった。
何かを失ってしまうのが怖かった。
欲しいものを欲しいと言えないまま、いや、欲しいと思うことすら許されないと信じたまま、失ってしまうのは怖かった。
酒井君の温かさを知るたびに、心の奥底では圭太郎君のことを思っていた。
この温かさを圭太郎君に与えてくれる人はいるのだろうか。
この温かさをわたしが圭太郎君にあげられたら、と思っていた。
その気持ちを、もう誤魔化せなかった。いや、もう誤魔化さなくても良かった。
ずっと一緒にいることが難しいのは、分かっている。
「だから、わたしは、一緒にいられなくても、圭太郎君が『ただいま』と言って帰ってくる場所でいたい。圭太郎君、わたしたち、家族になろう」
圭太郎君は目を見開く。
その目尻に溜まっていたものが、頬を伝い流れた。
それから、圭太郎君は眉を顰め、やはり首を振った。
「俺たちは、『幼なじみ』だ」
圭太郎君の怒号が、ロビーに響き渡った。
周囲の目が一斉にこちらに向けられているのが分かる。でも、私は動じようがない。圭太郎君の言葉の続きを待つ。怒鳴られているこちらが、感情的に反応しないし、圭太郎君も決して暴力に訴えているわけではない。周囲は、何かを囁きながらも、わたしたちを通り過ぎていく。
「どうしたのよ、大きな声を出して」
と、ニーナさんが駆け寄ってきた。加瀬さんもやって来る。
ピアノの音は一瞬止まったけれど、再び鳴り始めた。
でも、圭太郎君の目には、他の人の景色なんか映っていない。
ただ、わたしを見ている。
「ふざけてなんか、いない。わたしは、酒井君のプロポーズを断った」
「どうして。ナオには全部話したんだろう。お前が、全部話して、託して、委ねて良いって思える相手なんだろう」
その問いかけにも、頷く。
「ナオはお前を支えてきたんだろう。お前も、ナオを大切にしてきたんだろう。だったら、それで良いじゃないか。ナオがそばにいれば、お前は不安じゃない。ナオといれば、お前は、笑っていられる。そうじゃないのか」
圭太郎君の声が震える。黒く光る瞳に、涙が浮かんでいる。
わたしは、目の前の圭太郎君に腕を伸ばし、抱き着いた。
圭太郎君の鼓動が聞こえる。速く打って、戸惑っている。
「早紀」
わたしの名を呼んで、振動する胸。
わたしはずっと、圭太郎君にこうしたかった。
圭太郎君の胸に顔を埋めながら、ゆっくりと息をする。圭太郎君の匂いで胸がいっぱいになる。先生の家の石鹸の匂い。
「わたしは、幸せになりたい。そう思っている」
「だったら」
圭太郎君の手がわたしの肩を掴んで、そして体から引きはがす。
「ナオがいる」
そう怒ったように口にしながら、圭太郎君は首を振った。
「俺は、ピアノを弾きたい。お前は日本で、昔の俺たちみたいな子供たちを救いたい。だから、俺たちは、一緒にいられない」
わたしも首を振った。
そんなことは、もう、何度も、何度も考えてきた。
でも、先生が倒れたと聞いたとき、もしかしたら、と考えたとき、怖かった。
何かを失ってしまうのが怖かった。
欲しいものを欲しいと言えないまま、いや、欲しいと思うことすら許されないと信じたまま、失ってしまうのは怖かった。
酒井君の温かさを知るたびに、心の奥底では圭太郎君のことを思っていた。
この温かさを圭太郎君に与えてくれる人はいるのだろうか。
この温かさをわたしが圭太郎君にあげられたら、と思っていた。
その気持ちを、もう誤魔化せなかった。いや、もう誤魔化さなくても良かった。
ずっと一緒にいることが難しいのは、分かっている。
「だから、わたしは、一緒にいられなくても、圭太郎君が『ただいま』と言って帰ってくる場所でいたい。圭太郎君、わたしたち、家族になろう」
圭太郎君は目を見開く。
その目尻に溜まっていたものが、頬を伝い流れた。
それから、圭太郎君は眉を顰め、やはり首を振った。
「俺たちは、『幼なじみ』だ」



