pp―the piano players―

 空ピアノが見えてくるより先に、雑踏に紛れて聞こえてきたのは、様々な形をした小さなスパンコールをちりばめたような音楽。
 モーツァルトのピアノソナタ。圭太郎君が、ドイツでオーケストラやお客様を前に軽やかに弾いていたのと同じ、K.(ケッヘル)545番の第一楽章だ。
 わたしは足を速める。酒井君も並んで進む。

 平日昼過ぎの空港で、そのかわいらしい演奏をしていたのは、絵美ちゃんだった。
「はい、絵美子。その手の高さ?」
 絵美ちゃんの隣に腰かけて、サビーナさんがアドバイスをしている。
「はい」
 と絵美ちゃんは短く答えて、手首を少し上げると、十本の指はそれぞれの手の曲線に沿って、より滑らかに動くようになる。
 わたしも、何度先生に言われただろう。肩の力は。ひじはその場所? 手首を軸に、指を転がして、と。先生と同じようなことを、サビーナさんは言っている。きっと、ライスターさんの元で美しい音楽を求めて日々ピアノに向かう中で、同じようなことに気づき、それをわたしたちにかみ砕いて教えてくれている。
「ほら、さっきより良くなった」
 絵美ちゃんは、頬を紅潮させながら音楽に乗っている。

 ピアノの鍵盤の前に、絵美ちゃんとサビーナさんがいて、それを離れたベンチで宮間さんが見ている。
 そのベンチの向こうで、ニーナさんと加瀬さんがタブレットとスマートフォンを突き合わせて話をしている。圭太郎君は、その近くにはいなかった。少し離れたところで、天井を見上げながら歩き、立ち止まってはピアノの方を向いて、また天井を見て、少し歩いて立ち止まっている。
「何しているんだ、あいつは」
 酒井君が、圭太郎君を見つけてつぶやいた。圭太郎君は、わたしたちに気づくと、手招きをした。

 ほら、小さなわたし、駆け出して良いよ。
 圭太郎君に向かって、走って、飛びついて、大声で言って良いよ。
 大好きだよ、と。

「走りたいように見える」
 酒井君が口にした。
 わたしは頷いた。走らないで、歩きながら。
 素直な気持ちで、圭太郎君に向き合う。そうやって良いんだよ、とわたしは「わたし」の心をなでる。酒井君がそうして表現してきてくれたでしょう? それは嬉しいことだったでしょう?
 昨晩の酒井君がそうだったんだな、と頭を過った。わたしに会いたいと伝えてくれて、先生の家で会ったときにぎゅっと抱きしめてくれた酒井君。
 酒井君は、「小さな酒井君」を走り出させるのがとても上手だ。だから。

 わたしは、もう何度も自分に言い聞かせたことを、もう一度繰り返す。
 酒井君に、感謝こそすれ、謝らない。