空港にピアノが置いてある。
空港にあるストリートピアノだから「空ピアノ」と呼ばれている。
酒井君と一緒にレンタカーを返して、みんなと合流しようとロビーに向かっていたら、酒井君にニーナさんから電話があった。酒井君は穏やかな声で、うん、Ach so、 Und dann?、ja、わかった、行くよ、とドイツ語と日本語がごちゃ混ぜになって相槌を打っている。
「ピアノのあるラウンジのところにみんないるって。空ピアノだ」
わたしを見て、穏やかに声を掛けてくれる。
一時間前、酒井君は、わたしの話を感情をあらわにしながらも聞いてくれた。
酒井君がいたから、今のわたしがある。それなのに、わたしは酒井君の申し出を断った。謝ることはできなかった。
全部、「わたし」なんだ。悩んでいた過去も、自分のこころを押し殺して決めたことも、酒井君の温かさに癒されていた日々も、勉強や仕事に打ち込んできたことも、全部わたしだ。わたしは、自分で決めた道を、いま歩いている。
酒井君は「家族になろう、結婚しよう」という言葉で、わたしが目をそらしてきたものに気づかせてくれた。だから感謝こそすれ、謝らない。
「酒井君」
わたしは、前を歩く酒井君の背中に声をかけた。
小ぶりなスーツケースを引いた酒井君が立ち止まって振り返る。
その間に、わたしは酒井君に追いついた。
「隣を歩いていてもいいかな」
酒井君は、少し、眉を下げる。
わたしはそうしたかった。酒井君と、これで終わり、何もなかった関係には戻れないとは思っている。道で会っても知らんぷりをするような、そういう関係にもなりたくない。
「早紀はときどき、わがままだ。僕は、いいよって言うしかないと分かっているのに」
酒井君はその困った顔のまま、苦笑いする。
「だって、わがままを言えるわたしにしたのは、酒井君だよ」
「そうだね」
わたしは「ピアノのあるラウンジ」を示す看板を見つけた。酒井君と隣りだって歩き出す。
「そう、酒井君のおかげ」
「うん。僕のおかげだね」
ふと、「手がいつもと違う」と思ってしまった。
「いつも」であれば、隣にいる酒井君は私の手を握ってくれる。けれども、今は、そうならない。
酒井君は、右手にスマートフォンを持って、左手でスーツケースを引いている。
本当に、わたしはわがままだな、と思った。自分のバッグのハンドルを、両手で握った。



