pp―the piano players―


 先生の病室では、誰も先生の体調の話なんかしていなくて、次から次へと打ち上げられる花火のように、音楽の話がされていた。よく聞いていくと、体調の話はもう昨日に終わっていて、話題は圭太郎君が人前でした演奏のことで、ザビーナさんが感想を伝えたり、圭太郎君に演奏の意図を尋ねて、それに圭太郎君が答えたり、曲の解釈の浅さや狭さをザビーナさんと先生に指摘されたりと、三人のピアニストの話は白熱していた。ニーナさんはそれを楽しそうに聞きながら、少し離れて出入口の近くに立っていた。圭太郎君の逃走を心配しているのだろうか。
 細く開けた窓から風が入って、先生の黒髪を揺らした。前に先生に会ってから、随分長い時が経ってしまったように感じた。だけど、花瓶の薔薇はまだまだぴんとしている。時間を長く感じるのは、わたしの気持ちが揺れ過ぎたせいだ。

 揺れるな。止まれ、わたし。

「ニーナさん」
 わたしは振り返って、声を掛ける。
「ありがとうございました、圭太郎君を連れてきてくれて。ザビーナさんも、圭太郎君も、先生も楽しそう」
 ニーナさんは、何度か頷いた。褐色の針金のような髪が揺れる。そして聞かれた。
「早紀、あなたは圭太郎に音楽を戻せる?」
 音楽を戻す。それは。
「わたしは、圭太郎君には、ピアノを弾いていてほしい。そのためにわたしに何かできるなら、力になりたいと思っています。その、『音楽を戻す』というのが、具体的にどういう方法なのか分からないけれど」
「もう、十分だ」
 薔薇の香りの風と共に、背後から圭太郎君の声が届いた。
「早紀が、そう思っているのが分かれば、俺はもう十分だ。俺の音楽というのは戻って来る。そうさせる」
 その声はあまりに優しい。わたしの気持ちはまた揺れる気配を見せる。
 何か弾きたいのならロビーにピアノがある。と、先生が圭太郎君に言う。「いや、」と圭太郎君が言うので、そっとそちらを向く。圭太郎は先生とザビーナさんを向いていた。「今は早く、向こうに戻りたい。コンラートにもっと教わりたいことがある。意地を張っていたけれど、先生や早紀に会ったら、もっとピアニストとして腕を磨きたいと思った。帰ってきて良かった。俺に期待をしてくれる言葉があった。だから、俺は、確かにピアニストとして生きるために、向こうでピアノを弾きたい。でかい、フルコンサートピア」
 感極まったのか、ザビーナさんが圭太郎君の言葉を遮って抱き着いた。「Tu es encore un enfant. Konrad vous élèvera vers de grands sommets.(まだまだ、あなたはひよっこよ。コンラートがあなたを高みへ引き上げてくれる。)」
 先生は口元を穏やかに緩めた。そして、そっと目頭を押さえた。