酒井君の腕にまた力が入った。はっとして見ると、こちらを見ている酒井君と目が合う。

「おはよう」
 自分の口から出た言葉が、思った以上に掠れて、揺れてびっくりする。酒井君は空いている手でわたしの頬に触れた。温かい。

「また」
 そう言って少し笑う。
「一人で考えて、困っているんだね。早紀は」
 目の下を酒井君の親指がなぞる。それに沿って涙が零れる。

 酒井君にも伝えないといけない。
「なお……たか……君」
 酒井君は目を丸くして、それからとても優しい目をしてわたしの髪を撫でた。
「うん」
「名前を呼んでもらうのって、すごく嬉しいことなんだね」
「うん」
 その返事が耳に入るよりも早く、唇が塞がれる。酒井君の腕が動いて、わたしの体は反転し、酒井君を見上げるようになる。酒井君の目が光る。
「もっと呼んで」
 そして酒井君はわたしの視界から消える。酒井君が触れている体中が熱い。わたしは叫びたくなるのを抑えるように、酒井君の名前を口にした。

 Ich liebe dich.
 それから、その言葉を、その言葉をくれた人に向けて、叫びたかった。その人と幸せになりたいと思ってしまった。この感情を教えてくれた人の腕の中で、わたしは何を思っているんだろう。なんていやらしいんだろう。浅ましいんだろう。汚らわしいんだろう。
 頭がぐちゃぐちゃになる。涙が止めどなく溢れた。懺悔のように、何度も何度も同じ名前を口にした。