「K.Assmann」
 僕は呟く。
「お知り合いではありませんか」
 ザビーナはまた「Non」という。
「アスマン?」
「ザビーナさんは、圭太郎の『物語』を売れと言いたいのではありませんか?」
 するとドゥメールは楽しそうに「Oui」と返した。

「あなたと白峰美鈴は『物語』の一端を手紙で共有しているし、その少し前からは早紀が知っている。僕は圭太郎と出会ってから十年近く経つし、ニーナはここ最近のことは本人の次に詳しいと自負している。でも誰も、始まりを知りません。知っているとすれば、おそらくその、アスマンというチェリストなんです」
「そのことを、圭太郎は知っているの?」
「ええ」とニーナ。「本社に連絡して、圭太郎自身がアスマン氏に会えるようにするつもりです」

 ドゥメールは納得した表情で、コーヒーを口にした。少し間が開く。かち、と小さな音を立て、カップを置いた。
「圭太郎が、それを知りたいのね。圭太郎……スランプのピアニストの前にある霧を、二人は晴らそうとしている」
 早紀、僕、ニーナの順に、ドゥメールはそれぞれの顔をしっかりと見た。
「頼もしいわ」

 ドゥメールはハンドバッグからルームキーを取り出した。そして、早紀の手を取る。
「ねえ早紀、部屋で話しましょう。ヨシのこと、たくさん教えてほしいわ」
 少女のように目を輝かせるドゥメールを前に、早紀は困ったように僕を見た。僕は時計を見た。
「三十分経ったら迎えに行くよ」
 行っておいで、と送り出す。早紀は頷いて、腕を絡ませるドゥメールと歩き出した。