「早紀?」
 階段を上がってきた酒井君の足が見えた。顔を見ることができない。
「圭太郎と何かあったの?」

 振り切るように階段を降りる。応接間に置いたままのバラを手に取る。
 だめだ。先生の家に、圭太郎君と一緒にいたらだめだ。ここは温かすぎる。寒い日の朝の布団のように、ぐずぐずとしてずっといたいと、動きたくないと、思ってしまう。もう、起きなければいけないのに。
 あの日、先生は小さなわたしたちに寝る場所と食べる物を与えてくれた。そしてわたしには家族がないこと、圭太郎君には帰る場所はないがピアノの才能があることを知って、わたしたちを育てることを決めた。加瀬さんの手を借り、全力でわたしたちを慈しみ、しかるべき教育を受けさせてくれた。大人になったわたしたちは、自分の力で生きていくことで先生への恩返しできるのだ。だから、立ち止まっていてはいけないのに。
「早紀」
 追いついた酒井君に背を向けたまま言う。きっとわたしはひどい顔をしている。声が震える。
「もう少し待って、圭太郎君が降りて来なかったら、行こう、酒井君。一緒に帰ろう」

 優しい声が、返ってくる。

 はずだった。