携帯電話が震える。酒井君からの電話だ。バスの中だったので、出られない。
 電話を切り、その旨のメッセージを送る。
 バスに乗っているから、ということを酒井君は不思議に思うかもしれない。「先生の家に寄ってくるね。時間は間に合いそうだから」と加える。酒井君を迎えるために、先生のバラを少し貰いたい。「じゃあ、そこに迎えに行くから。待っていて」と返信がある。こんなにも自分のことを思ってくれる人がいるのは、とても嬉しい。

 バスを降りて、少し歩く。街灯が整備されて、夜も明るい街になった。ただ、先生の家は留守で周りが明るいだけに闇の深さを感じる。先生の配偶者であるところの加瀬さんは、加瀬さんの家でお母さんと暮らしており、ときどきここに泊まりに来る。平安時代さながらの通い婚だ。加瀬さんは先生と暮らしたいし、お母さんも連れて来ると言って先生も承知しているが、この暗さを理由にお母さんは拒んでいるらしい。加瀬さんも、先生と初対面のときに幽霊だと思ったというから、お母さんに何も言えない。

 門を開ける。玄関までの小道に小さな明かりが点く。これは加瀬さんが手を加えた。わたしはその導きに従わず、庭へ回る。

 夜風が花の香りを浮かび上げる。木立と家に阻まれて、人工の明かりは届かない。月明かりが射す。