「笑わせるな、何が安心だ」
 圭太郎が唸るように言った。
「早紀を安心させる? それには、あいつの傍にいてやるのが一番なんだよ。行けよ、帰れよ日本に、早紀のところに」
「だから言っているじゃないか。圭太郎との仕事が一段落しないと。僕だけが離れるわけにはいかない。悩む暇も、ましてや選択肢なんかないんだ。結局君は、ピアノを弾くしかない」
「それが」
 言葉を詰まらせる。思うようにいかないんだろう。スランプなんだ。

 ノックが僕たちの会話を破る。
「ナオ」
 ドアを開けると、ニーナがいた。緑色の瞳は強い意思で光っている。
「これは、ドゥメールが用意したの。こっちは、私が用意した。私だったら、不安なとき、恋人に傍にいて欲しいから。彼女も、そうじゃないかと思って」
 渡された二つの封筒を開く。どちらにも航空券が入っていた。座席こそ離れているが、どちらも明日の同じ便だった。
「二人とも、一度日本に戻るべきよ」
 その流暢な日本語は、もちろん圭太郎も聞いている。ただでさえ耳がいい。

「圭太郎は、ヨシ……白峰美鈴のお見舞いをするために。ナオは、恋人を安心させるために。私も、圭太郎の仕事は急ぎたい。でもそれ以前に、良いものを作りたい。だったらピアニストのために、私たちは最善を尽くすべきだわ。まずは、圭太郎の不安を除き、スランプから抜け出させることよ」