「ドイツに行けと言われたとき、真っ先に早紀を思ったよ。でも彼女にも仕事がある、早紀がずっと目指してきたことをしているんだ。それに、もう僕たちは二十六だ、いい大人だろ。子どもじゃない」
「そんなことは分かっている」
 
 理性では分かっているのだろう。でももっと深い、本能の部分で不安が拭えないのだろう。それが手に取るように、僕には分かっていた。
「だからドイツに来た。新進気鋭の日本人ピアニスト、吉岡圭太郎と契約し、活動を展開させて、ドイツで軌道に乗せる。日本でのプロモーションを担当するために、そこで帰国する。そういう予定で来たんだよ」
「断われよ、俺だと知った時点で」
「大きなチャンスじゃないか」
 チャンス、という言葉をどう取ったのか、圭太郎が睨んでくる。が、怯むことはない。

「これで上手くいけば、圭太郎の夢が叶う。ピアノで飯を食っていくって。そうすればもう、早紀が圭太郎のことで憂うことはないんだ」

 大学三年の初夏、早紀はあんなに泣いた。圭太郎の夢を阻む存在だと突き付けられ、葛藤し、迷って、泣きじゃくった。あんな涙を二度と流させるか。あんなにたくさん、圭太郎との繋がりを考えさせるものか。
「僕は早紀が好きだ。彼女を安心させたいから、僕は圭太郎と仕事をすることを決断したんだ」