かたん、と音がした。見れば、早紀が持っていた鉛筆がテーブルの上を転がって、早紀自身はソファーに倒れている。眠っている。
白峰美鈴はどこからかタオルケットを持ってきて、早紀の細い体にかけた。頭を撫で、目にかかっている髪を払う。
「素敵なピアノだった」
元の椅子に座って、目線を伏せて話す。
「あの部屋で、あのピアノでベートーベンを弾いているとき、私は幸せだった。求めていれば良かった」
幸せだった。年代物のシュトライヒャーに携われたこと、幸せ以外の何物でもなかった。このピアノは男性から女性への贈り物だと知ったとき、感心したのと同時に、どうしようもない嫉妬を覚えた。会社の同期と一年間付き合っていたが、その夏に日本に戻ったときに、あっさりと振られた。彼女はその後、同期の中での一番の出世株と交際している。
幸せ。
シュトライヒャーは、当地の名ピアニストであったコンラット・ヴェンツェル・ライシュターの邸宅へ運んだ。雪が街を飾り、静かな聖誕祭を祝福していた。金髪のドイツ人は嬉しそうにシュトライヒャーを見つめていた。調整を続けている俺に、
「Sind Sie ein Japaner?(日本人かい?)」
と尋ねてきた。Ja、と答えたが、そのあとはずっと仕事を続けた。手早く終えるよう注文されていたが、それよりもこの仕事に集中したかった。こんなピアノはもう二度といじれないとわかっていた。このピアノを弾くピアニストに挑んでいた。ピアニストに合わせるのではなく、ピアノを満足させれば良いのだ。このピアノの純粋な魅力で、ピアニストを魅了させてやると意気込んだ。
白峰美鈴はどこからかタオルケットを持ってきて、早紀の細い体にかけた。頭を撫で、目にかかっている髪を払う。
「素敵なピアノだった」
元の椅子に座って、目線を伏せて話す。
「あの部屋で、あのピアノでベートーベンを弾いているとき、私は幸せだった。求めていれば良かった」
幸せだった。年代物のシュトライヒャーに携われたこと、幸せ以外の何物でもなかった。このピアノは男性から女性への贈り物だと知ったとき、感心したのと同時に、どうしようもない嫉妬を覚えた。会社の同期と一年間付き合っていたが、その夏に日本に戻ったときに、あっさりと振られた。彼女はその後、同期の中での一番の出世株と交際している。
幸せ。
シュトライヒャーは、当地の名ピアニストであったコンラット・ヴェンツェル・ライシュターの邸宅へ運んだ。雪が街を飾り、静かな聖誕祭を祝福していた。金髪のドイツ人は嬉しそうにシュトライヒャーを見つめていた。調整を続けている俺に、
「Sind Sie ein Japaner?(日本人かい?)」
と尋ねてきた。Ja、と答えたが、そのあとはずっと仕事を続けた。手早く終えるよう注文されていたが、それよりもこの仕事に集中したかった。こんなピアノはもう二度といじれないとわかっていた。このピアノを弾くピアニストに挑んでいた。ピアニストに合わせるのではなく、ピアノを満足させれば良いのだ。このピアノの純粋な魅力で、ピアニストを魅了させてやると意気込んだ。



