白峰家を次に訪れたのは、金曜の午後だった。
玄関のベルを押しても返事がない。ドアは開いている。そっと足を踏み込んだ。
そして、家の中で思わず息を飲んだ。物音を立てないように階段を上り、二階の最奥の部屋へ行く。その部屋のドアが僅かに開き、そこからピアノの音が漏れていた。
速い。しかし、超絶技法などではない。ハノンだ。そう、ハノンだ。
「……」
決して覗いてはいけません。
そんな昔話の一フレーズが頭をよぎったが、欲望はそれに勝る。
おずおずとドアを押すと、ああ、白峰美鈴がピアノを弾いているのが目に入った。
「失礼ではないかしら。勝手に人の家に上がるのは」
表情は髪に隠れて見えないが、震えた声を掛けられた。
「ああ、多分、失礼です」
「たぶん、ね」
ふっと息を吐いて、彼女の手が止まった。顔は見えない。
「驚いた。ようやく、あなたのピアノを聞くことができた」
感動していた。
ハノンなんて、運動前の準備体操のようなものであるが、それでも音の正確さ、響き、何より弾いているピアニストにくぎ付けになる。そういう魅力に、感動していた。
「ピアノは、あるの」
彼女が独り語つ。両手の指を絡めて、鍵盤の上に置いてしまった。首を提げると、黒髪がさらさらと流れる。梅雨の晴れ間の強い日光が、カーテン越しに部屋へ差す。彼女の細い輪郭を浮かび上がらせた。
「……Ich will das Klavier spielen, aber ich habe meinen Hörer nicht. Deshalb spiele ich kein Klavier, es ist Unsinn. 前にも話したけれど、私にはもう、ピアノを弾く意味が、ないのよ」
玄関のベルを押しても返事がない。ドアは開いている。そっと足を踏み込んだ。
そして、家の中で思わず息を飲んだ。物音を立てないように階段を上り、二階の最奥の部屋へ行く。その部屋のドアが僅かに開き、そこからピアノの音が漏れていた。
速い。しかし、超絶技法などではない。ハノンだ。そう、ハノンだ。
「……」
決して覗いてはいけません。
そんな昔話の一フレーズが頭をよぎったが、欲望はそれに勝る。
おずおずとドアを押すと、ああ、白峰美鈴がピアノを弾いているのが目に入った。
「失礼ではないかしら。勝手に人の家に上がるのは」
表情は髪に隠れて見えないが、震えた声を掛けられた。
「ああ、多分、失礼です」
「たぶん、ね」
ふっと息を吐いて、彼女の手が止まった。顔は見えない。
「驚いた。ようやく、あなたのピアノを聞くことができた」
感動していた。
ハノンなんて、運動前の準備体操のようなものであるが、それでも音の正確さ、響き、何より弾いているピアニストにくぎ付けになる。そういう魅力に、感動していた。
「ピアノは、あるの」
彼女が独り語つ。両手の指を絡めて、鍵盤の上に置いてしまった。首を提げると、黒髪がさらさらと流れる。梅雨の晴れ間の強い日光が、カーテン越しに部屋へ差す。彼女の細い輪郭を浮かび上がらせた。
「……Ich will das Klavier spielen, aber ich habe meinen Hörer nicht. Deshalb spiele ich kein Klavier, es ist Unsinn. 前にも話したけれど、私にはもう、ピアノを弾く意味が、ないのよ」



