『都合により、吉岡圭太郎の演奏を繰り下げます』
ざわ、とホール内の空気が揺れたのが伝わって来る。わたしも目を見開いた。
「なんで」
「何、勝手なことしてんのよ」
令依子さんが小さく呟き、米噛みに手を当てた。一呼吸置いて、アナウンスは続く。
『続いての演奏は』
ピアニストと曲名が、整然と述べられる。それは、最後に演奏される筈の名前だった。
しばらくして、拍手が起こった。演奏が始まった。
呆然として、何も言えないでいる。
「あの、戸賀さん」
酒井君に呼ばれて、令依子さんが顔を上げた。
「今の曲、尺はどのくらいですか」
「十五分はあるかな」
そうですか、と酒井君は安堵の息を吐いた。わたしの目の近くで、酒井君の口が動く。
「それだけあったら、ゆっくり落ち着けるよ。吉岡の演奏に間に合うね」
うなずくことも出来ない。物事の展開に頭が追いつかない。
「誰かしら」
令依子さんが聞いている足音の主は。
「早紀!」
圭太郎君だった。



