秀吉は勤皇の志厚い光秀を主殺しの汚名を着せることによって武家社会から抹殺した。近衛前久を強迫して彼の猶子になり、勝てば官軍の言葉を絵に描いたように実践する。
 念願の関白に任官したのは天正十三年七月であった。その時、中村一氏も従五位下式部少輔に任じられた。
弟一榮は兄に付属し、二人は天正十八年まで水口にいたが、秀吉の関東平定後、兄一氏は徳川の押さえとして駿河一国を拝領、府中十七万五千石の城主となり、弟一榮も駿河沼津三万石の大名になった。
 一氏の旧領地甲賀小佐治の領民たちは、中村兄弟移封後も日照り続きで田が涸れると、松明を翳して枡形池の畔を巡って、『雨たもれ、雨たもれ』と佐治の奥方の化身、池の竜神に雨水(あまみず)を乞い続けという。

 慶長五年六月十八日、家康は伏見城守備に鳥居元忠、内藤家長、松平家忠らを残留させて、会津討伐のため出陣した。
 二十四日、小夜中山を越えて掛川に到着、山内一豊の饗応を受け、駿河島田に宿泊、二十五日は丸子に到着して、病床に伏す中村一氏を見舞い、清見寺に宿泊日する。家康が駿府城に立ち寄ったのは一氏の病気が本物か確かめることにあった。
 しかし、一氏は家康の来訪に感謝し、病気の自分に代わって弟一榮を陣代となし嫡子一学(十歳)に四千三百五十の軍勢をつけて参陣させることを約束する。