馬上の姫君

 国永の言う波多の横山の地は霧山の城から下之川を経て矢頭峠を下った波瀬川沿いにあった。
 雲出川の支流である波瀬川は室の口辺りに源流を発している。
 室の口は平維盛の嫡男六代君が斎藤五重秋(実盛嫡男)や文覚上人に守られて落延びていたという伝承のある所である。
 この辺りから波瀬川沿いに平地となり、東には黄金の波うつ美田が広がっている。この田からの収穫が波瀬川近くにある一志頓宮の食卓を飾ったのだ。
時代が下ると、落ち武者として逃げ来たった平氏の児孫が帰農して耕したと思われる良田が御台屋敷の前にも広がっていた。鳥沖の台地である。
 
 新婚当初の松姫は、夫具教とともに、北畠の武運長久を霊験新たかとされる矢頭権現に、また、北畠家の菩提を下之川桜峠近くの金剛寶寺に祈ったが、その折は何時も、波瀬川を下って、頓宮跡に建てられた御台屋敷に逗留、夫婦水いらずの楽しい時を過ごしたものであった。
 ところが、弱肉強食の戦国の世は苛烈にその歯車を廻し始めた。
 天文十三年、具教は舅定頼の出兵要請に応えて、北伊勢の関盛信、長野藤定、美濃土岐頼芸、越前朝倉義景らと佐々木六角を援けて京極氏を攻め、幸運にも、十二月二十三日、定頼、義賢父子と北江五郡を平定、翌年、二月二十六日、具教は従五位上に叙せられ、二日後に左近中将に任じられた。