そんな幸せな日常に、翳りが訪れた。
オレが小学校を卒業する頃、唯さんが病気だと聞かされた。
病名は癌。
発見が遅く、30代半ばの若い身体で転移は進行し、
オレが中学1年の夏にあっけなく亡くなった。
永遠の別れの直前…
すっかり痩せてしまって目の下に深い隈を作った唯さんは、それでも美しく笑った。
『唯さん…』
『照、あんなに小さな男の子だったのに、すっかり大きくなったわね。
あなたは遠慮ばっかりして、あまり甘えなくて逆にいつも心配だったわ。
でも、しっかり何でもこなすわたしたちの自慢の息子よ。
ねぇ。お願いがあるの、照』
『何、唯さん?
オレ、なんでもするから!だから…』
だから死なないで。
目にいっぱい涙をためて声にならない叫びをあげた。
『私のこと、母親だと思っていてくれた?
あなたはいつも名前でしか呼んでくれたことがなかったわ。
一度で良いわ。呼んで欲しいの』
『そんなこと…?』
『…私にとっては大切なことよ』
真摯に向けられた瞳に戸惑った。
『…思っていたよ』
オレは小さく呟く。
ずっと思っていたのに気恥ずかしさと遠慮から、告げなかった言葉。
気にしてるなんて知らなかった。
後悔が頭をよぎる。
『え…?』
『思っていたよ。
誰よりも何よりも大事な家族だ。
大好きだよ、晃一さん…父さんも崇佑も、それに、
母さんも』
オレと同じ様に、唯さんも涙を流しながら言った。
『ありがとう』
そして聞きたくない別れの言葉を少し苦しそうに告げた。
『晃一さん、照と崇佑をお願いね。
照、晃一さんと崇佑をお願いね。
崇佑、晃一さんと照をお願いね』
優しい唯さんは、こんな時までオレたちの事ばっかりだった。
『みんな愛してるわ』
最後にもう一度、最高の笑顔をしてくれた。
一生忘れない笑顔。
『オレもだよ、母さん』
3人がそれぞれの言葉で告げると、唯さんは微笑んで目を閉じた。
