男は、もとの都、奈良にある春日の里に来ていた。春の心地よい風が、男のまだ細い首のあたりを撫でて行く。

 ――良い日だ。
 先日、初めて髪を結い、冠を戴いたばかりである。まだうすら寒いような、馴れなくてそんな感じがする首筋に手を当てながら男は空を見た。青空にはぽかりぽかりと雲が浮かび、日差しは暖かく、山々には新しい緑が萌えている。

 男は涼やかな眼を、従者に持たせた鷹に向けた。鷹狩をしようと、今の都から領地の縁ある奈良の春日へやって来たのである。

 奈良は、祖父が晩年を過ごした地だ。祖父が若い頃に長岡、平安と都が遷ったが、古都に思い入れがあり、隠居した後はこちらに住まったという。
 男が生まれる直ぐ前に、はかなくなっている。

 帝が変わり時流が変わり、家はもはや政界の中心にはなかった。盛んであった奈良の頃を偲ぶ家中の者に囲まれて男は育ってきたが――今さら詮無いこと。
 男は、鷹を空に放った。春風が、男が纏う信夫摺りの衣を揺らした。