「は・ん・ばー・ぐ・が・ん・ば・っ・て・つ・く・っ・た」

 その字を口に出して言葉にした則夫は、大げさに表情を作って喜びを表現した。そして両手をたくみに動かしながら「すごいね」と口に出した。

 その動作は手話といわれるものだ。

 美里はくったくなく白い歯を見せて微笑むと、また則夫の指を導いてゆく。

「の・り・お・の・こ・う・ぶ・つ」

 その言葉にうんうんと頷きながら、則夫は感謝の言葉を重ねてのべた。しかしその言葉が美里の耳に届くことはない。彼女もまた生まれつき聴覚障害を持っていて、言葉を聞くことも発することも出来ないのだった。

 則夫の目は光を知らない。しかしその心は間違いなく光に満ちていた。その光を満たしてくれたのは、もちろん美里のおかげだった──


「すいません、ちょっとすいません……」

 一年前の暑い夏の日だった。

 車の通りの多い交差点を横切ろうとしていたときだ。親切な方が危ないからと則夫の手を掴んで渡らせてしまったのだが、こちらが思っていた方向とは違う道へと導いてしまった。

 毎日通っている針灸院への通勤路ではあったが、それでもひとたび方向を間違えると途端にそこは未知の領域となってしまう。

 たった一歩道を違えただけで、いつもの生活圏が姿を消してしまうのだ。