文久三年二月八日。
浪士組は江戸を出発して中山道を上洛する。

途中で先番宿割を任されていた近藤が水戸浪士の芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、激怒した芹沢が路上で大篝火を焚くという騒動が起こるが、近藤が芹沢に謝罪をしてその場はなんとか解決した。




そしてニ十三日、やっとの事で浪士組は京都の壬生村に到着。

だがその日の夜に事件は起きる。
浪士組の発案者清河八郎が、佐幕攘夷を願って集まった浪士組の者達を尊皇活動に利用してしまおうという計画が発覚したのだ。将軍警護というのはただ名だけの事だった。




これに異議を唱え浪士組と決別した、近藤勇達“試衛館派”と芹沢鴨達“水戸派”。

彼等は京都守護職会津藩お預かりとなり、八木邸や前川邸を屯所とする“壬生浪士組”が結成された。

そして、主に尊攘激派浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任されたのだった。







※佐幕攘夷…幕府を支持し、外国人を排斥すること