「だからお願い…。どこにも行かないで、航」


 彼女が俺を呼ぶ声が、耳の奥で甘く響いた。目眩がするほどの幸福感が俺を包み込む。


 この一年間ずっと、待ち望んだ事が今やっと叶った。

 俺は彼女にもう一度名前を呼んで欲しかった。彼女しか呼ばなくなった、俺の下の名を。


 思わず日向を抱き締める。


「日向…。頼む、もう一度俺の名を呼んでくれ」

「航……?」

「もう一回」

「航」


 目頭が熱くなる。

 抱き締めた彼女はおずおずと抱き締め返して来た。


「ごめんね航…。ごめんね」

「もういい、お前は悪くない」

「ごめん、なさ……」

「悪かった。あの日、約束守れなくて」

「航は謝らないでっ」

「日向……」


 体を放し、涙と洟でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、まっすぐに俺を見つめる彼女が堪らなく愛しかった。


 両手で両頬を包み込むと、彼女は更にその俺の両手を自分の両手で包み込む。


「つらい思いさせて、ごめんね。苦しめてごめんね。忘れちゃって、ごめんね…」

「謝るのは俺の方だ」

「ううん! 私が記憶失くしても航はずっと傍にいてくれたっ。凄く凄く、嬉しかったんだよ…」


 日向の一生懸命な言葉が心に染みる。

 一緒に笑い合い、ケンカした日々を思い出す。


 ──彼女は今この手の中にいる。

 そう思うと本当に嬉しくて堪らなかった。


 コツンと額を重ね合わせる。